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日本代表:ワールドカップ予選激闘の歴史 History

2017.05.31

【経験者が語るアジア最終予選の真実#第3回】1998年フランスワールドカップ:山口素弘<前編>伝説のループシュートの舞台裏と監督更迭の衝撃

1997年11月16日は、日本サッカー界にとって忘れることのできない一日として記憶されるだろう。長髪の快速ストライカーが滑り込みながらボールをネットに押し込んだ瞬間、積年の悲願がついに成就されたのだ。

俗に「ジョホールバルの歓喜」として知られるこの歴史的な一戦は、今なお多くのサッカーファンの脳裏から消えることはない。あれから20年、当時のチームを支えた山口素弘さんに、日本が初めて世界の扉をこじ開けたフランス・ワールドカップ アジア最終予選の戦いを振り返ってもらった。

1993年10月28日、日本サッカー界は耐え難いまでの喪失感に見舞われていた。あと一歩に迫ったワールドカップ出場の夢が目前でこぼれ落ち、再び立ち上がることが困難なほどのダメージを受けた。それでも4年後のフランス・ワールドカップ出場を目指し、日本代表はリスタートを切る。ハンス・オフト監督の後任に就いたのは、ブラジル人のパウロ・ロベルト・ファルカン監督だった。

若手を積極起用するファルカン監督だったが、なかなかチームをオーガナイズできず、広島で行われたアジア大会の準々決勝で韓国に敗れると、責任を問われて解任。就任から1年に満たない短期政権となった。

そのファルカン監督の後任として白羽の矢が立ったのが、横浜フリューゲルスを指揮していた加茂周監督だった。「ゾーンプレス」という革新的なスタイルで横浜Fを躍進に導いたその手腕が評価されての就任だった。

横浜Fで加茂監督のもと「ゾーンプレスの申し子」と言われた山口さんは、まさにこのチームのカギを握る存在だったのだ。しかし、山口さんは自身の立場は安泰ではなかったと振り返る。

「最初に呼ばれた時は、僕なんて3番手、4番手くらいの立場でしたから。むしろ、監督にはいい面も悪い面も知られているわけだし、所属チームでも褒められたことはなかったので、自分にアドバンテージがあるとは思っていませんでしたよ」

それでも山口さんは次第に立場を確立し、不可欠な存在となっていく。チームも海外遠征を含めた多くの対外試合をこなしながら、着実に力を携えていった。

そして迎えた1997年、オマーン、マカオ、ネパールと同居したワールドカップ1次予選を難なく突破すると、同年9月から始まる最終予選へと駒を進める。

最終予選を前に、山口さんは「ワールドカップ出場は悲願ではなく、マストだ」と考えていたという。それはフランス大会の4年後に日韓共催のワールドカップが行われることが決定していたからだ。

「開催国が初出場というのは今までなかったケース。自国でやる前に、一度は出ておかないといけない。もちろん4年前のことも頭をよぎりました。あと一歩で逃したあの予選を思えば、今回は絶対に突破しないといけない。そういう部分でのプッシャーはかなりありましたね」

もうひとつ懸念材料はあった。この最終予選は直前になってセントラル開催ではなく、ホーム&アウェイ方式にレギュレーションが変更になったことだ。

「急きょ決まったので、どうなるのかなという難しさもありました。正味2か月のスケジュールをどのように戦って行こうかという、未知なる戦いへの不安もありましたね」

ウズベキスタン、アラブ首長国連邦(UAE)、韓国、カザフスタンと同居したグループで、首位になることがワールドカップ出場の条件。2位となればもう一つのグループの2位チームとの第3代表を争うレギュレーションだった。

「当然、韓国が最大のライバルになるだろうなと考えていました。一方でウズベキスタン、カザフスタンは未知のチーム。UAEも手強いチームだと考えていましたし、特にアウェイでの試合に関しては警戒していました」

初戦の相手はウズベキスタン。9月7日、満員の国立競技場で行われたこの一戦は、三浦知良選手の4ゴールを奪う活躍もあり、6-3と快勝。フランスへ向けて幸先の良いスタートを切った。

しかし、山口さんには一抹の不安があったという。

「いろんなものを見るとポジティブな要素はあったけど、3失点を喫したのが気になりました。試合中も後ろの井原(正巳)さんとかと、失点するたびに話をしていました。しっくりしない部分も当然あって、初戦を勝ったのは当然良かったけど、次に向けては手放しで喜べる試合ではありませんでした」

2週間後の9月19日にはアウェイでUAEと対戦し、スコアレスドローに終わる。勝利を期待したファンやマスコミからは批判的な意見も聞こえてきたが、選手たちにとっては前向きな勝点1だったという。

「長いことサッカーをやってきて、いろんな場所でプレーしましたけど、あのUAE戦は一番暑かった。スタジアムの雰囲気も完全アウェイという感じで、ピッチも含めやりにくさはありました。そういうなかで、点は取り切れなかったけど、無失点に抑えて勝点1を持ち帰って来たんです。当時はホームとアウェイの違いというか、常に勝たなくてはいけないという風潮があったけど、僕らとしては悪くない結果だと捉えていました」

2試合を終えて1勝1分とした日本は、第3戦で最も重要と捉えていた韓国戦を迎える。この試合で山口さんは、日本サッカー史に残る名シーンを演じて見せる。0-0で迎えた67分、自陣で相手のボールをカットすると、ドリブルでエリア内に侵入。巧みにDFをかわすと飛び出してきたGKの頭上を抜く、鮮やかなループシュートを決めたのだ。

このゴールが生まれたのには、様々な背景があった。まず、この試合を4-4-2の布陣で臨んだこと。3バックの時は名波浩選手とボランチコンビを組むことが多かった山口さんだが、この試合では中田英寿選手と名波選手が2列目で出場。山口さんは守備に定評がある本田泰人選手と2ボランチを形成していた。

「相手はヒデ(中田)と名波を警戒しているというのは分かっていたので、僕のところは空くのかなと。本田君が守備をやってくれたので思い切って前に行くことができたし、チームでも、サンパイオが守備をやってくれるので、前線に絡んだり、点を取ったりということができていた。そのイメージを持ちながら、この試合はプレーしていました」

相手のボールを奪取したシーンでも、大きな駆け引きがあった。山口さんがボールを奪い取った相手はコ・ジョンウン。当時Jリーグでプレーしていた選手だったのだ。

「何度も対戦していた選手なので、彼の癖みたいなものが頭の中に入っていました。どちらかというとボールを右に置きたがるので、右に置いた瞬間を狙おうと。案の定、右に切り替えしたんで、そこで身体を入れて上手く取れました」

奪った後の判断も冷静だった。

「取った後は前にロペス(呂比須ワグナー)とカズ(三浦知良)がいたので、ドリブルでエリア内に侵入してフィニッシュのイメージを持ちながらも、どっちかが空かないかなと考えていました。そこに対応に来たのがホン・ミョンボ。非常に頭の良い選手なので、パスよりもドリブルで外したほうがいいかなと。外した瞬間、顔を上げなくてもGKの位置が見えていたので、上に浮かせて狙いました」

この間、わずか数秒。一瞬のうちに下した冷静かつ的確な判断、そして技術の高さによって生み出されたスーパーゴール。刹那、国立競技場に歓喜が爆発した。

しかし、本人はいたって冷静だった。

「すごいシュートが決まったというよりも、先制点を取りたかったので、それが取れたという喜びが大きかったですね」

もっともこのスーパーゴールは、結果的に空砲に終わってしまう。その後、韓国の圧力に耐えきれず、84分、87分と立て続けに失点。最大のライバル相手にホームで逆転負けと、ダメージの大きい敗戦となった。

「この試合は監督に対する采配批判もありましたけど、自分のなかではリードした後のゲーム運びが幼かったと思っています。選手交代どうこうではなくて、個人として、チームとしての戦い方や判断の部分。相手がパワープレーにくるなかで、どうやって逃げ切るのか。そういうところは、まだあの時の日本には欠けていたし、その意味では必然の逆転負けだったと思います」

3連勝で首位の韓国に対し、日本は1勝1分1敗で3位。早くも1位突破に黄信号が灯った。

敗戦のショックを振り払えぬまま、日本はすぐさまカザフスタンに飛んだ。アウェイでの第4戦、秋田豊選手のゴールで先制しながらも、後半アディショナルタイムに失点し痛恨のドロー。この試合の直後にショッキングな事件が起きる。加茂周監督が更迭され、岡田武史ヘッドコーチが監督に就任したのだ。

その監督交代劇を山口さんは振り返る。

「選手として責任を感じましたね。自分たちが結果を出せなかったから、そうことになってしまったわけで。ただ、すぐにウズベキスタン戦が控えていたので、切り替える必要があった。選手で集まって、とにかくやるしかないと。そんな話をしたのを覚えています」

日本は確実に追い込まれていた。しかし、諦める者は誰もいなかった。胸の中で灯された闘う炎は、決して消えていなかったのだ。

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