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全少に触れて ~技術委員長 反町康治「サッカーを語ろう」第6回~

2021年01月29日

全少に触れて ~技術委員長 反町康治「サッカーを語ろう」第6回~

「全少」という名で親しまれている大会に昨年暮れ、足を運んだ。鹿児島の白波スタジアムで決勝が行われたJFA 第44回全日本U-12サッカー選手権のことだ。千葉・幕張の高円宮記念JFA夢フィールドでU-19日本代表候補の活動を見終えた後、その足で鹿児島に飛び、準々決勝、準決勝、決勝と視察した。決勝はFCトリアネーロ町田(東京)とジェフユナイテッド千葉U-12(千葉)が対戦し、トリアネーロがPK戦の末に初優勝した。トリアネーロの選手たちに優勝カップを渡し、喜ぶ勝者と涙にくれる敗者の両方に向けてスピーチをした。「優勝おめでとう。そして準優勝のチームにもあえて、おめでとうと言いたい。涙の数だけ成長できるから。10年後の2030年のW杯で日本はベスト4を目指します。10年後にみんなは22歳になっている。サムライブルーのユニホームを着て、そこにいる可能性がみんなにある。もっともっとうまくなるように頑張って。期待しています」

小学生年代の日本一を決めるこの大会、1977年の第1回から2000年までは夏休みを利用して、東京・稲城市のよみうりランドで行われた。その後、東京の味の素スタジアムや西が丘サッカー場、福島のJヴィレッジ、静岡の愛鷹や時之栖に会場を移し、15年から鹿児島で冬休みに行われるようになった。冬場に移したのは、熱帯化する一方の日本の夏に、子供に試合をさせるのは危険だと判断したからだ。冬開催とともに、11年から、11人制を8人制にしたのも大きな変更点だ。当初は試合に出られる選手が3人減ることに抵抗があったようだが、ピッチのサイズを小さくした中で8人制にしたことで、一人ひとりがボールに触る回数は確実に増えた。「ゴールデンエージ」と呼ばれる、神経系の発達が著しいこの年代の子供たちにとっては、適切な改革だったと思う。

全国大会まで勝ち上がってきたチームだけあって、今大会もレベルの高い試合を見させてもらった。GKがフィールドプレーヤーのごとく組み立てに関わることも当たり前になった。優勝したトリアネーロもゴールキックの際にはDFがGKのすぐ隣に立ち、そこから丁寧につないだり、DFが最終ラインからボールを持ち出したり、ビルドアップにこだわりを持ったチームだった。1対1のチャンスにドリブルで仕掛けることも多かった。今回、ベスト16に残ったチームの半分は、Jクラブのアカデミー(育成組織)ではない、いわゆる「町クラブ」だった。トリアネーロもその一つで、そういうクラブが激戦区の東京を勝ち抜いて日本一にもなったことは、多くの町クラブの指導者と選手を勇気づけたことだろう。スペイン人監督のジェフも好チームだったが、今回はPK戦で惜しくも優勝を逃した。私にとっては、現役時代を知る斎藤大輔や工藤浩平の息子さんが選手としてチームにいることも驚きだった。特に工藤は、私が松本山雅の監督時代に選手として頑張ってくれたから「あの時の子供がこんなに大きくなっているのか」と感慨もひとしお。お父さんと同じように、おそらくJリーガーを目指す彼らが今後、どんなキャリアを歩むのか、本当に楽しみである。

年の瀬に、子供たちがピッチで生き生きと躍動する姿を見ながら、ちょっとタイムスリップしたような気分になった。というのも、私も、ある意味で「全少」のOBといえる一人だからだ。親の転勤で小学校3年の時に引っ越した先が、社宅のある静岡県清水市(現静岡市)だった。当時の清水市(今もそうだが)は「サッカーの町」であり、堀田哲爾さんという名物先生が清水の少年チームをまとめ上げ、「オール清水(後の清水FC)」という選抜チームを編成し全国レベルでその名をとどろかせていた。そんなところに越してきた私もすぐにサッカーにどっぷりつかり、小学校6年の時には「オール清水」の一員として、全少の前身である全国サッカースポーツ少年団大会に優勝したのである。今も脳裏に、うだるような暑さの中で試合を何試合もやったことと、夜は全国から集まってきたサッカー仲間たちと一緒にキャンプファイアーをしたことが、しっかりと焼き付いている。それが出発点になって、清水東高校でも全国制覇を経験し、サッカーを続けて日本代表になることもできた。

思い出すのは堀田先生のことだ。とにかく先見の明があるというか、独創的というか、前例を踏襲せずに何にでもチャレンジする人だった。例えば、私は、小学校4年の時に堀田先生に連れられて初めて海外遠征を経験した。学年が2つ上に風間八宏さん(現セレッソ大阪スポーツクラブ技術委員長)や大木武さん(現ロアッソ熊本監督)がいるチームは遠征先でも無類の強さを発揮して話題になった。オール清水の体制は、小学生から高校生まで貫かれていて、小学校の校庭に清水東と清水商業(現清水桜が丘高校)の高校生も集まってきて、一緒に小学生のサッカー小僧と垣根をなくしてサッカーをする。夜の練習の時にはナイター照明の代わりに車のライトでピッチを照らす。やがて本物のナイター照明を校庭につけてくれた。子供たちは、高校生が目の前で実演するいろいろな技に、見よう見まねでトライした。正規の練習が終わった後でも、しつこくグラウンドに居残り、こつこつとドリブルやリフティングをしていたような選手がやはり最終的には伸びていった。そういうクラブ的な土壌を当時から用意した堀田先生の発想と実行力は、今から考えても舌を巻いてしまう。私は中学3年の時にも清水でセレクションされてブラジル遠征を経験したが、その時にチームについて通訳をしてくれたのがセルジオ越後さんだった。ぜいたくというか、そんな環境を整えてくれた堀田先生のサッカーにかける情熱、スケールの大きさには脱帽するしかない。

JFAの技術委員長になった私はグラスルーツの拡充に力を注ぐことを重点項目に挙げているが、その理由はいたってシンプルだ。競技の土台をしっかり固めて裾野を広げるほどに、いい選手を多く世に送り出し、たどり着ける山の頂を高くできるからだ。サッカーに関心を持ち、プレーに興じる子供が増えれば、二次的三次的にファンを増やす効果も期待できる。サッカーにそれほど関心がなかった親御さん、あるいは、おじいちゃんやおばあちゃんが、子供や孫を応援するうちに、指導者や審判のライセンスを取ってみようとなったり、自分でもプレーしてみようとなったりする。そういう例は結構多い。小学校までは男女一緒にプレーできるから性別の垣根もない。だから、とにかく小学生まではサッカーの楽しさを目いっぱいアピールして欲しいと思う。勝つ楽しさ、喜びを知ることは大事だが、いびつな勝利至上主義は子供から熱を奪い、競技人口を減らすことになりかねない。親御さんには試合から帰ってきた子供に「今日は勝ったの?」と聞くのではなく「今日は楽しかった?」と聞いてもらいたいと思うくらいだ。

そういう意味で、これは示唆に富んでいると思うのが、欧州では育成年代でレフェリーのことを「ピッチマネジャー」と呼ぶことがあると聞いた。日本ではレフェリーのことを「競技規則の代弁者」として「石部金吉」のようにとらえがちだけれど、欧州では、プレーヤーの年齢、カテゴリー、ピッチの状態その他に応じて、ピッチやゴールのサイズ、ゴールの代わりにコーンを置くとか、試合のやり方を柔軟にディスカッションしながら決めていく。その議論にレフェリーも積極的に関わるのだそうだ。前提になるのは「こうすることが子供たちにいいのではないか」「子供を伸ばすことになるのではないか」という大局的視点。だから「ピッチマネジャー」と呼ぶと。そういう柔らかな受け止めから「小学校4年まではキーパーを置かずに試合をやろう」とか「この選手たちなら8対8じゃなくて、6対6の方が良さそうだ」とか「勝ち点は争わず、ゲームはするけれど勝敗表をつくらない」とか、いろんなアイデアも出てくるという。

私は、小学生の間にサッカーと同時にフットサルを体験することも勧めたいと考えている。今年度の全国高校サッカー選手権でベスト4に入った帝京長岡(新潟)は降雪量が多い冬場はフットサルでスキルを磨いていると聞いている。元ブラジル代表のロナウジーニョやネイマールもフットサル経験者。ボールの大きさや重さに違いはあるが、繊細な技術を習得するのにゴールデンエージでフットサルをやるのは有効だと思う。小学生にもっとフットサルを広めるために、8対8のサッカーと4対4のフットサルの試合を並行して行い、サッカーで挙げた勝ち点とフットサルで挙げた勝ち点を合算して順位をつけるような大会を開いてみたい、というようなことも考えている。サッカーキッズをもっと増やすには、サッカーをすることを心から「面白い」「楽しい」と思ってもらうのが一番だ。そのための既成概念に縛られないアイデアや知恵を各県、各地域の指導者からどんどん募りたいと思っている。

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