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「復興の道のりをアカデミーの子供たちと、地元の人の心に寄り添って共に歩んでいきたい」東日本大震災から10年~リレーコラム 第9回~
2021年03月25日
東日本大震災から、10年の時がたちました。国内外から多くのサポートが寄せられ復旧が進んだ一方で、復興にはまだ長い道のりが残されています。それぞれの立場で、東日本大震災とこの10年間にどう心を寄せ、歩んできたか。ここではサッカー関係者のエッセイやコラムをお届けします。
第9回は、東日本大震災発生時にJFAアカデミー福島女子のダイレクターで、同ヘッドコーチを務めていた今泉守正さんの話をもとにお伝えします。
JFAアカデミー福島。日本サッカー協会(JFA)が福島県、広野町、楢葉町、富岡町と連携して、2006年4月から学校教育とサッカーの指導に取り組んだシステムだ。サッカーに才能を持つ人材が集まっている。とはいえ、中学から高校までの6年間を対象としたアカデミーの目的は、必ずしもサッカーにだけ特化したものではない。地元の人々との共存も含めて、中高一貫教育構想の一つとして行われている。活動はJヴィレッジが拠点となる。一方、寮は男女違う地区に建っていたため、中学の学区は異なった。男子は広野町立広野中学校、女子は楢葉町立楢葉中学校に通学。高校年代になると、双葉郡にある福島県立富岡高校に進学する。富岡高校にはアカデミーの発足と同時に、国際・スポーツ科が新設され、バドミントンの桃田賢斗など他種目のアスリートも在校した。
当時は男女合計で、125人のアカデミー生が在籍していた。2011年3月11日のことは、午前中に楢葉中で卒業式が行われたことと合わせて記憶されている。当時、JFAアカデミー福島女子のダイレクターで、女子チームのヘッドコーチを務めていた今泉守正は、富岡町での会議の最中に尋常ではない揺れに襲われた。富岡から楢葉に車で戻る途中の国道は、至る所が陥没していた。ラジオからは「津波が来ます」とアナウンサーが絶叫していた。立ち寄った自宅は大きな被害こそ免れたが、近所にはつぶれた家屋も数多くあった。その時間帯、中学の卒業式を終えた生徒は、保護者と共にいわき市に食事に出かけていた。他のアカデミー生は、午後3時からのトレーニングの準備をしている最中だった。「子どもたちが一所にそろっていたときだったのが不幸中の幸いでした」。Jヴィレッジの体育館には、地元の人々も避難していた。混雑を避けるために、安全を確認して女子寮に戻ることを決めた。電源が失われた中、各部屋から一階のロビーに布団を下させ、全員で一晩を過ごした。その時点では被害の情報はまったく入ってこなかった。
翌12日になって状況が変わった。有線放送で避難命令が流れたのだ。「とにかく南下して下さいと言われた。でもその前に『下手に動かない方が良い』という話を聞いていたので、迷いました。そうしているうちに、また連絡が来て『今泉さん、そういうことではなく、とにかくいわき方面に避難して下さい』と再度言われた。すぐに準備をして出発しましたね」。バスは広野の男子寮にあったため、女子生徒たちはスタッフの車に分乗していわき市に向かった。集合場所はいわき市立平第四小学校。同校は避難場所に指定されてはいなかったが、校長、教頭らに事情を説明すると、快く体育館を解放してくれた。混乱の中、広野町から別行動で出発した男子が、どのように避難したのかは把握できていなかった。女子を安全に移動させることが最優先されたからだ。その後、男子は広野町の避難所になっているいわき市立中央台南小学校にいることが分かった。アカデミー男子の中田コーチと連絡を取り合う中で、男女が揃って同じ場所にいる方が望ましいという結論になった。夕方には男子も平第四小学校の体育館に移動し、その後に卒業式のあった女子生徒らも全員が合流した。翌13日、アカデミー生は東京から迎えに来た大型バス2台で、西が丘にある味の素ナショナルトレーニングセンターに移動。1泊した後の14日に、それぞれの親元に戻った。
今泉は、13日に東京に移動してから、JFAの近くのホテルに泊まり込んで情報を収集した。関係者の協議は連日続いた。見通しは暗いものだった。Jヴィレッジが原発対策の拠点となったことも合わせ、アカデミーの今後の活動を福島で行うのは難しい。誰しもが思う客観的な見方だった。「富岡、楢葉、広野に関しては、すぐに元の状況になることはないと分かった。自分たちも、まずあの土地には簡単に戻れないだろうなと漠然とイメージしました」。
3月30日、当時JFA副会長でアカデミーのスクールマスターを務めていた田嶋幸三(現、JFA会長)と今泉らスタッフは、福島県に入って各地を視察、情報を集めた。その状況を目にし、あらためて復興には数年単位を要することを覚悟した。大きな理念を掲げてスタートしたアカデミーの、存続のピンチと言ってよかった。だが、困難な状況でも、関係者はアカデミーを解散するのではなく、継続する前提の元に動いた。最終的に福島県に戻る。そのことを基本にし、県内外での活動の拠点を探った。
アカデミーに対しては、自治体や大学などから受け入れの申し出が来た。その状況下、複数の候補地の中から、3月31日に移転先が決まった。それが、静岡県御殿場市にある時之栖だった。整備された複数のサッカーフィールドを有し、宿泊施設も整っている。さらに男女が分断されることなく、共に同じ場所で活動できる可能性が一番高いのが時之栖だった。サッカーをする環境は整っている。問題が生じるとすれは、学業に関しての事だった。中学校は義務教育なので、楢葉や広野の町立中学から時之栖の学区である御殿場市立富士岡中学校に転入することで解決される。ただ、一番考えなければいけないのは、高校の問題だった。アカデミー生の通っていた富岡高校の校長や教員たちは、福島県立郡山北工業高校に避難していた。バドミントンやゴルフといった他の生徒たちに関しても、福島県内での移動だった。その中でアカデミー生だけが県を越えて静岡県に移転することになった。
「最終的には行政のトップの方々が決めた形です。静岡県の川勝平太知事と福島県の内堀雅雄副知事が緊急事態ということで話し合ってくれた。それで『富岡高校の生徒さんを静岡県で預かります』という合意に至って調印し、引き受けて下さることになった」。福島にあるときから、富岡高校は単位制の学校だった。それが幸いした。卒業に必要な必修科目と卒業に必要な単位を獲得すれば卒業できる。受け入れ先となったのは、時之栖からバスで30分ほどの位置にある静岡県立三島長陵高校だった。三島駅前にあるこの高校もまた、単位制高校だったのだ。新年度が始まるにあたり、三島長陵高校には富岡高校から2名の教師が派遣された。赴任したその教師が、アカデミー生の男女の担任を務めた。静岡県三島校舎を借り受ける形で認められた、富岡高校のサテライト校。震災移転から空白期間を空けることなく、アカデミー生の高校生活は再開された。
2018年4月、JFAはJFAアカデミー福島の、静岡県から福島県への帰還の予定を発表した。それによると男子は2021年4月に復帰、女子はチーム編成上、2024年に全6学年が一斉に戻って活動を再開することになっている。「アカデミーの復帰の話は、連絡を取り合っている福島の方々も楽しみにしている。もちろん復興には物質的な要素もありますが、一番大切なのは人の心の復興だと思っています。その復興の道のりをアカデミーの子どもたちと、地元の人の心に寄り添って共に歩んでいきたい。僕も最後は楢葉に戻りたいと思っています。本当にいい所なんですよ」。震災から10年。居住する米国から、今泉はそう言って福島に思いを馳せた。(文中敬称略)
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