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【ホットピ!~HotTopic~】日本の女子サッカーを「世界」の舞台に導いた人々~大住良之(サッカージャーナリスト)コラム
2025年10月16日
2025年度 第21回日本サッカー殿堂で井原正巳さん、鈴木保さん、半田悦子さん、木岡二葉さん、高倉麻子さん、野田朱美さんの6人が新たに殿堂入りされ、その掲額式典が9月16日(火)、JFAサッカー文化創造拠点「blue-ing!」で執り行われました。
チームを除き、女子選手としての殿堂入りは今回が初めて。国内での女子サッカーの認知度がまだ低く、競技人口も少なかった時代、思いを同じくする仲間とともにサッカーに心を燃やし、日本女子代表の草創期を築かれた皆さんの歩みを、大住良之さん(サッカージャーナリスト)のコラムで振り返ります。
日本女子代表が世界に初挑戦するとき、代表選手として一緒にプレーした4人が新たに殿堂入り。
当時の写真は左から野田さん、木岡さん、半田さん、高倉さん
「第21回日本サッカー殿堂掲額式典」で、6人の方々が新たに殿堂入りを果たされました。不滅の日本代表キャプテン・井原正巳さんについては、新たに語る必要などないでしょう。井原さん以外の5人の方々は、いまや世界のトップレベルの一角を占める日本女子代表「なでしこジャパン」の草創期に、アジアのトップレベルへ、そして世界にチャレンジする時代へと導いた人々です。
鈴木保さんは1989年に日本女子代表監督に就任すると、女子サッカーが正式種目になった1990年のアジア競技大会(北京)で銀メダルを獲得。以後、1991年の第1回FIFA女子世界選手権(現在のFIFA女子ワールドカップ)への出場権を獲得、1995年の第2回大会(スウェーデン)ではベスト8に進出して初めて正式種目となった1996年のアトランタオリンピックへの出場権を獲得します。この時代に、明確なビジョンと温かな人柄で先導役になったのが、鈴木さんでした。
元日本女子代表監督の鈴木保氏は今年3月に逝去。式典には奥様がご出席され、
「大変ご縁の深かった選手の皆さまと一緒に掲額していただくことになり、鈴木も喜んでいることと思います」とコメント
日本女子代表の歴史は、1981年の第4回アジア女子選手権(現在のAFC女子アジアカップ)に出場したことで始まります。そのメンバーに、当時ともに高校1年生だった半田悦子さんと木岡二葉さんがいました。半田さんはインドネシアとの第3戦で日本女子代表の初ゴールを決め、歴史的な初勝利に導きました。
「私たちの頃は日本女子代表もなかった。本当にサッカーが好きで、もっと勝ちたい、うまくなりたいという
気持ちだけでやってきた」と半田さん。今は指導者として、女子サッカーとともに成長したいと話した
3年後の1984年10月に中国の西安で行われた招待大会で日本女子代表にデビューを飾ったのが、当時高校1年生の高倉麻子さんと中学3年生の野田朱美さんでした。ここから日本女子代表の新しい時代が始まります。
当時はあまり多くなかった日本女子代表の国際Aマッチですが、その出場数は、半田さんが75試合19得点、木岡さんが75試合30得点、高倉さんが79試合29得点、野田さんが76試合24得点と、とても似通っています。そして半田さんと木岡さん、高倉さんと野田さんが、同時にピッチに立った試合が、ともに63試合もあり、何より、4人そろっての出場が40試合にもなるのです。
半田さんと木岡さんは、「サッカーどころ」の静岡県清水市(現在の静岡市)で育ち、小学3年生のときにサッカーを始めました。しかし中学になるとサッカーをする環境がなく、半田さんは陸上競技部に所属します。そうした状況を見かねて、入江小学校の女子チームを指導していた杉山勝四郎さんが中学生以上を対象とする「清水第八サッカークラブ」を創設したのです。木岡さんをはじめ、小学生時代にサッカーをしていた少女たちがすぐに加わりました。ただ半田さんは陸上競技部をやめることができず、ようやく清水第八に加わったのは、部活が終わった中学3年の夏でした。
木岡さんの代理でご出席されたお兄様は「妹は好きなことがサッカーというより、単純にボールを蹴ったり、
友だちと笑い合ったり、話をすることが好きだったと思う」と話し、殿堂入りを喜んだ
高倉さんは福島県福島市で生まれ育ち、一緒に遊んでいた男の子たちとともにサッカー少年団に入部しました。「サッカーは男のもの」と思われていた当時、「いいよ」と入部を認めてくれた鈴木克也先生がいなかったら、その後のサッカー人生はなかったでしょう。しかし、やはり中学に上がると福島にはサッカーをする環境はなく、見かねたお母さまが東京の女子クラブに連絡し、「月に一度ほど一緒にボールを蹴らせてくれないか」と頼んでくれました。最初はお母さまに連れられて、そして後には一人で「特急ひばり」に乗り、FCジンナンでのプレーが始まったのです。
「私たちの世代に光を当てていただいたことは本当にありがたい」と高倉さん。自身も多くの先輩たちに
「ひたむきに頑張ることや最後まで諦めないことを学んだ」とし、後輩のなでしこジャパンにエールを送った
野田さんは、小学6年生のときに女子チームを対象とした大会があると聞いてチームをつくって参加、そこでのプレーを認められて、誕生したばかりの「読売サッカークラブ女子ベレーザ」に加入します。チームメートは大学生や社会人ばかり、毎日練習に参加できるのは野田さん一人。それでも男子トップチームの監督だった相川亮一さんが熱心に指導してくれ、そこにラモス瑠偉さんら男子トップチームの選手が加わってくれたといいます。
4人とも、現在のように女子チームが整備された時代にサッカーを始めたわけではありませんでした。しかし、サッカーの魅力に取りつかれ、練習に励む中で、「日本女子代表」という、さらなるチャレンジに出合ったのです。
「サッカーをしたい、目の前の試合で勝ちたいという段階から、代表で世界を相手に戦いたい、もっと上に行きたいと思うようになりました」と、高倉さんは話しています。
1979年に日本女子サッカー連盟が誕生し、JFAが女子チームの登録を始めました。しかし当時のJFAは財源に乏しく、日本女子代表の活動は、すべて女子連盟が費用を調達しなければなりませんでした。この形は1989年まで10年間続きます。その間、代表選手たちは、海外遠征などのたびに数万円の自己負担をしなければなりませんでした。
今回殿堂入りした4人の方々は、そうした時代に代表チーム運営に奔走してくれた人々、そしてときに自ら遠征費の一部を出してくれた監督たち、そして一緒に「世界」を目指して努力したすべての選手仲間の「代表」という意味合いを持っています。
この4人が中盤に並んだ時代の日本女子代表は、本当に質が高く、フィジカル面では欧州勢に劣っても、ボール扱いの技術やサッカーの魅力という面ではむしろ優れていました。突進してくる相手チームの選手をひらりとかわし、軽やかにパスをつなぐサッカーは、まるで上等なワルツのダンスのようでした。2011年にFIFA女子ワールドカップで世界を魅了した「なでしこジャパン」のサッカーの源流は、間違いなくこの時代にありました。
1995年、スウェーデンで開催された第2回FIFA女子世界選手権でブラジルを相手に2-1の逆転勝ちを収め、日本女子代表はオリンピックの舞台に立つ権利を得ました。
「1990年のアジア競技大会を皮切りに、女子世界選手権、そしてオリンピックと、私たちの前には、次々と新たな目標、そしてさらに高いステージが生まれました」と、半田さんは話します。
「なんとかワールドカップで1勝を」と頑張ってきた野田さんは、1995年の世界選手権で自らの2ゴールによりブラジルを下し、その夢を果たします。そして翌年のアトランタオリンピックが3連敗で終わったとき、当時高校2年生だった澤穂希さんにこう話したそうです。
「これがあなたたちのスタートだよ。ここまでくるのが私たちの責任だった。オリンピックで勝ち、世界選手権で上位に行くのは、あなたたちの仕事だよ」
1996年7月のアトランタオリンピックが、半田さん、木岡さん、野田さんにとって最後の国際舞台となりました。「引き継ぎ役」を引き受けた高倉さんは、1999年まで日本女子代表でプレーしました。
野田さんは「本気で世界に行くんだ、ワールドカップで天下を取るんだと本気で思っていた。
今振り返ると『本気で向かってきたこと』が全てなのかなと思う」と回顧。
感謝の気持ちを胸に日本サッカーの発展に貢献していく思いを明かした
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