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日本代表:ワールドカップ予選激闘の歴史 History

2017.06.06

【経験者が語るアジア最終予選の真実#第4回】1998年フランスワールドカップ:岡野雅行<後編>極限の精神状態に追い込まれたイランとの最終決戦

1997年11月16日、決戦の地、マレーシア・ジョホールバルのラルキン・スタジアムに到着した時、岡野雅行さんは興奮を抑えきれないでいた。

「バスを降りた瞬間に、ただごとではないなと。日本人のサポーターがたくさんいて、試合前なのにテンションがすごく高かった。でも、僕はそういう雰囲気が好きなんで、もうやってやるぞという気持ちだけでしたね」

スタメンは前日に発表されており、自身はベンチスタートであることをすでに知っていた。それでも出番は絶対に来ると信じて疑わず、岡田武史監督から指名された「秘密兵器」は、その時に備え、心を研ぎ澄まさせていた。

試合は日本が先制に成功する。39分、中田英寿選手のスルーパスに抜け出した、中山雅史選手が先制ゴールを奪取。1点リードで前半を折り返した。ところが後半立ち上がりに、前日まで車いすに乗っていたアジジ選手に同点ゴールを許すと、59分にはイランのエース、ダエイ選手に打点の高いヘッドを叩き込まれ、逆転されてしまうのだ。

「秘密兵器の出番が来たな」

その時、岡野さんはそう思ったという。率先してアップを行ない、アピールのために岡田監督の視界に入る場所で、びゅんびゅんと走った。

「意味もなく、スライディングまでしてましたから(笑)」

それほどまでに、岡野さんは試合に出たくて、仕方がなかったのだ。

すると63分、岡田監督が動く。2トップの三浦知良選手と中山選手を交代させる指示を出したのだ。

「やっと出番が来た」

そう思い、岡野さんはユニホームに着替えようとしたのだが、声がかかったのは城彰二選手と呂比須ワグナー選手だった。

「おいおい、と。俺、秘密兵器じゃないのかよと。冷静に考えればFWをこれ以上代えることはないだろうから、この時点でもう出番はないのかなと思っていましたね」

ところが76分、城選手が同点ゴールを決めると、岡野さんの頭にある思いがよぎった。

「いや、待てよと。この試合は勝たなければいけないわけだから、攻めに行く必要がある。ということは、まだ出番が来るかもしれない」

しかし、時間が経つにつれ、両チームともに無理をしなくなっていった。1点取られたら終わり。そんな緊迫した雰囲気がピッチを包み込み、あれだけ盛り上がっていた観客席も、固唾をのんで戦況を見守るようになっていた。

「あっ、この雰囲気無理だなと。あれだけ出せって思っていたのに、この状況では出たくない。よし、もうこの試合にはかかわるのはやめようと、ベンチの隅のほうに隠れました(笑)」

結局、試合は2-2のまま後半終了の笛を聞き、ゴールデンゴール方式の延長戦に突入する。岡野さんはもう出る気はなかったが、念のためベンチメンバー全員でアップをしていると、岡田監督が自分の名前を呼ぶが聞こえた。

「まじか、やめてくれよ。ここじゃないだろ」

心が折れそうになりながら、ユニホームに着替えると、岡田監督から声をかけられた。

「入れてこい」

その指示に、岡野さんは無理難題を押し付けられた気がした。ピッチに立っても、なかなか気持ちが乗ってこない。早々にチャンスが訪れたものの、シュートは力なく、GKにキャッチされる。

「アドレナリンが出てこないんですよ。腰が引けていたし、体が思うように動かない。ただ、ヒデ(中田英寿選手)が持ったら本能的に走っちゃうんです。するとパスが出てくるんですよ」

迎えた絶好機、GKと1対1となりながらも、シュートはGKの正面に飛び、セーブされてしまう。

さらに今度はカウンターから、再び中田選手からのスルーパスに抜け出す。

「今度は独走状態。さっき外しているし、今度決めなかったらえらいことになるなと。いろいろ考えていたらGKとの距離が詰まっちゃって、打つコースがなくなったんです。やばいと思って、パッと横を向いたらヒデがいて。いいところにいたと思って、横にパスをしたら、あっさりとカットされてしまいました。敵がいるのがまったく見えていなかったんです。ヒデの顔しか見えていない。頭が真っ白で、まるで試合に入れていませんでした」

決定的なチャンスを逃した直後、ゴール裏のサポーターからは厳しいヤジが飛び、ベンチを見れば岡田監督が怒りの表情を浮かべていた。

前半終了間際にもこぼれ球に反応し、シュートを放ったが、ボールはバーの上を越えていった。3度に渡る決定機逸――。

「これは人生終わったなと。もし負けたら日本に帰れないし、サッカーは辞めようと。そもそも、なんでサッカーなんて始めたんだろうと自分を恨みましたね。」

そんな岡野さんを救ったのは、仲間たちの言葉だった。延長前半が終わり、後半が始まる前に円陣を組むと、選手たちが次々に励ましの言葉をかけてくれた。

「ひどいことを言われるかと思いましたが、『しょうがない』とか、『お前しかいない。頼むから点を取ってくれ』とか。そうやって背中を押してくれた。それで勇気が湧いて、後半になって、ようやくアドレナリンが出てきたんです」

後半も日本が押し気味に進めたが、なかなかゴールを奪えない。一度だけダエイ選手の決定的なシュートが日本ゴールを襲った時、岡野さんの頭は再び真っ白になったが、直後に歓喜の瞬間が待っていた。

「ヒデがまたドリブルを始めたので、スペースに走ったんです。そしたら、ヒデはそのままシュートしちゃって。僕があまりにも決めないから、きっとパスを出すのをやめたんでしょうね(笑)」

しかし、そのシュートはGKに弾かれ、パスを受けようとゴール前に走っていた岡野さんの目の前に転がってきた。GKと目が合った。身体が勝手に反応していた。スライディングしながら、確実にボールをネットに押し込んだ。

「別にスライディングしなくてもよかったんですよ。でもあれも本能なんでしょう。ダフっちゃいけないと、勝手に身体が横になっていました」

決まった瞬間は、頭が真っ白になった。気づけばベンチに向かって走っていた。白く反射するメガネが視界に入り、体ごとその光に向かって飛び込んだ。

試合後は誰彼構わず抱擁を交わし、国旗を背中に、スタンドのファンに向かって感謝の意を示した。しかし、一通り喜んだ末にロッカーに戻ると、声を出す者は誰もいなかった。

「負けたようにシーンとしていましたね。肩の荷が下りたというか、はぁと、ため息をついて。もう、あしたのジョーみたいな感じですよ。みんな、真っ白な灰になっていました」

ホテルに向かうバスの中も静寂に包まれていた。ホテルに着き、食事会場でちょっとした祝勝会を行なったが、盛り上がりに欠け、選手たちはすぐに部屋に戻っていった。

一息つくと、ようやく落ち着きを取り戻した。年齢の近い仲間たちが自然と部屋に集まり、缶ビールで祝杯を上げた。

「名波(浩)とか、平野(孝)とか、モリシ(森島寛晃)とかが集まって、みんなで疲れたよねとか、お前外しすぎだろとか、笑いながらしゃべっていました。そしたら、ふとした瞬間に、平野が真顔で言うんです。『ちょっと待って、俺達ワールドカップにいけるんだよね』って。その時初めて、気づいたんです。試合が終わった時は、勝ったという喜びよりも、やっと日本に帰れるっていう想いのほうが強かった。ワールドカップのことなんて忘れていました。でも、平野の言葉で急に実感がわいて、ワーってみんなで喜んだことを覚えています」

試合に出られずに悶々とした日々を過ごしてきた男が、最も重要な試合で歴史を変えるゴールを決めた。おとぎ話のようなドラマの主人公となった岡野さんだが、しかしこの試合はしばらく彼のトラウマになっていた。

「あの試合の映像は、しばらく怖くて見られませんでした。もし、あのまま負けていたらどうなっていたのかと。あれだけチャンスを外した僕の責任は大きかったと思います。日本のサッカー界もどうなっていたのか分からない。そう思うと足が震えちゃって……」

ゴールを決めたことさえも、十字架を背負わされてしまったと感じていた。

「あの試合の印象が強くて、どこにいっても言われるんです。『Vゴールの岡野』って。所属していた浦和でも、それまではスタメンで出れていたのに、岡野は途中から出たほうがいいと、スーパーサブのような扱いになってしまいました。決めたときはもちろんうれしかったですけど、しばらく経つと、もういいだろうって。あのVゴールはキャリアを歩むうえでは邪魔な存在でしたね」

しかし、ジョホールバルの歓喜から15年が経った頃、娘の言葉が、その呪縛を解き放たせた。

「娘が小学3年生くらいの時に、歴史の本を見ていたんです。そしたら、パパが出ているっていうんですよ。僕は言ったんです。『それはパパじゃないよ、人間の進化の過程だよ』って(笑)。でも娘は、本当にパパが載ってるっていうから見てみたら、ジョホールバルの時の写真が出ていたんです。聖徳太子から始まるような歴史の本に、僕が出ているなんて、驚きでしたね。そういえば、あの場面は切手にもなったんです。そうやって考えたら、俺はすごいことをしたんだなと。歴史に残ることをしたんだなって。そう思った時、あのゴールの呪縛から解き放たれたし、この話をいろんな人にしていかなければいけないなって、思うようになりました」

今では映像を見られるようにもなり、講演で当時の話をする機会も増えたという。

日本中に熱狂を生み出した、ジョホールバルの歓喜は、岡野さんにとっては決していい思い出だけではなかった。極限の精神状態に追い込まれた末に手にした、まさに運命を変えた勝利。日本のサッカー界だけでなく、岡野さんの人生も、あの試合で大きく変わったのだ。

日本が世界を知らなかった時代、ワールドカップをかけた戦いとは、それほど大きなものだったのだ。

あれ以来、日本は5大会連続で本大会に出場を果たしており、ワールドカップ出場は、当たり前のものとなりつつある。

「昔は出なくてはいけないというプレッシャーだったけど、今は出て当たり前というプレッシャーがある。そのなかで質も求められているので大変だと思いますけど、要は勝てばいいんですよ。いいことしてやろうとか、見せようとか、そんな気持ちはいらない。力はあるので、普通にやれば負けることはないと思います。隙を見せず、全力で最後まで戦ってほしいですね」

人生をかけて世界の扉をこじ開けた男の言葉には、経験した者にしか語ることのできない、重厚な響きが備わっていた。

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