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「東北人魂、被災地の少年たちにその心を引き継いで欲しい」東日本大震災から10年~リレーコラム 第5回~

2021年03月19日

「東北人魂、被災地の少年たちにその心を引き継いで欲しい」東日本大震災から10年~リレーコラム 第5回~

東日本大震災から、10年の時がたちました。国内外から多くのサポートが寄せられ復旧が進んだ一方で、復興にはまだ長い道のりが残されています。それぞれの立場で、東日本大震災とこの10年間にどう心を寄せ、歩んできたか。ここではサッカー関係者のエッセイやコラムをお届けします。

第5回は、東北人魂を持つJ選手の会の発起人の一人、小笠原満男さんの話をもとに当時の状況や東北人魂を持つJ選手の会の取り組みなどをリポートします。

何かの行動を起こすための動機づけ。それは自分の育った地域への帰属意識が、大きな比重を占める場合もある。東日本大震災に際しては、日本はもとより世界中の人々が多くの手を差し伸べた。その中で日本のサッカー界では、東北に縁のある選手たちが先頭に立って献身的な活動を行った。
悲惨なことが起ったことは、誰もが認識している。ただ、惨状をテレビの画面を通して見た人と、現地に足を運んだ人では捉え方に違いがあっただろう。あの時、被災地に足を踏み入れたならば、間違いなく伝わってくるものがあった。声を出さずとも聞こえてくる、被災者の悲しみの声だ。
2011年3月11日の午後2時46分、鹿島アントラーズの選手だった小笠原満男は、東京駅に向かうチームバスの中にいた。翌日に清水で行われる試合の前泊のために、選手やスタッフとともに移動していたのだ。大きな揺れを感じた後に、設置されたテレビを通して飛び込んでくる映像だけで、ただならぬ事が起こっているのが分かった。直後に岩手県の縁のある人たちに連絡を試みたが、全くつながらない。その安否を確認するまでに2、3日がかかった。
すぐにでも岩手に駆け付けたかった。しかし、被災地に入れるのは緊急車両が優先。現地に入るまでには1週間が過ぎていた。鹿嶋からの道中、途中までの光景はさほど変わらなかった。それが一変したのは、津波に襲われた地区に一歩踏み入れたときだ。本来、そこにあるはずの建物がすべて姿を消していた。あまりの驚きに頭の中が真っ白になった。
「そこいら中に車がひっくり返っていた。避難所に行けば、まだ裸足の人も多くいた。とても大変な事が起ったという印象だった。一人の力でどうこうできる問題じゃないというのは、すぐに実感しましたね」
J1の開幕戦直後に起こった震災。Jリーグは約1カ月半の中断を余儀なくされた。この期間を利用し、小笠原は被災地に頻繁に足を運び、支援物資を配る活動を行った。そのような中、日本サッカー協会(JFA)は3月29日に大阪でのチャリティマッチを行うことを発表した。SAMURAI BLUE(日本代表)とJリーグ「TEAM AS ONE」が対戦するカードだ。もちろん小笠原にも、Jリーグ選抜で出場してほしいとの要請があった。
最初は断りを入れた。被災地支援に時間を取られ、十分な睡眠も食事もしていなかったからだ。その気持ちを翻意させたのが、被災した人々の声だった。避難所の人たちは携帯の充電もままならず、情報を得られていなかった。その状況で小笠原に会うと「サッカーをいつも見ているよ」「サッカーやっているんですか?」と声を掛けてくれた。
「ちょうどその頃は、一人での活動にも限界も感じていたのもあった。自分がサッカーをやることで喜んでくれたり、みんなの気持ちが明るくなったりするのであれば、出るのもありかなと思い直しました。良いプレーはできなかったけど、なんかやって良かったなと感じたのは覚えています」

震災直後から東北出身のJリーガーや関係者と連絡を取り合っていた。人数は30~40人ぐらいになっていた。そのような時、秋田に住む熊林親吾(ブラウブリッツ秋田)から連絡が入った。「僕は被災地じゃないけど、何かできませんかね」と。協力を申し出てくれたのだ。
支援の形は、これまでは個人が中心であったが、ここから集団での活動に移行していった。2011年5月13日、東北6県出身の現役Jリーガー6人が発起人となり、被災地を支援する『東北人魂』が立ち上げられた。
震災直後から小笠原の活動の一番の原動力となったのが、被災したサッカー少年たちの姿であり、言葉だった。当然のことだが、東北人魂の当初の支援物資は、ボールやスパイク、ユニフォームなどのサッカー用品が多くなった。それらの支援の物資を集めて、現地に送る。現地に届けられたそれらの物資を各方面に配る際にも、東北出身のJリーガーたちのサッカー人脈がフルに活用された。
小笠原の場合、大船渡高校サッカー部の同級生、サッカー関係者、市の関係者などが手助けをしてくれた。なかでも高校時代の恩師であり、現在、盛岡商業高校の総監督を務める斎藤重信の存在は大きかった。
「斎藤先生は津波被害のなかった盛岡に住んでいるので、盛岡商業に荷物を送りました。それで先生がトラックに荷物を詰めて、2時間も3時間もかけて被災地に荷物を配ってくれた。宅配便代わりです。先生は知り合いも多いので、各地域に物資が行き渡りました。感謝しかありません」
震災から10年の年月が経過した。被災地に必要なのは、今は物資ではない。長く継続的に行ってきた活動のなかで、小笠原、そしてともに活動したメンバーに共通した思いが芽生えてきたという。
「自分たちと触れ合った少年たちが、将来、一人でもJリーグのピッチに立って欲しい。その子どもたちが東北の被災地の子どもたちに、再び何かをバックする。そういうサイクルが出てくればと思います」
今後、活動の中心は各地で様々な大会を行うことを目指している。大会をつくって、人と人との交流が盛んになることを目指している。
「アントラーズの子どもたちは被災地に連れて行ったこともあり、実際に何が起こったかを認識してもらっている。これは言いたくはないんですが、歴史を見てもいずれ津波は来ると思っていた方がいい。そのときにどういう行動をしなきゃいけないか。まさにそれを語り継いでいく必要があるのかなと……」
災害が起こっても犠牲者は出さない。人の命さえ救われれば、悲しみの声は、少しは和らぐ。あの惨状を目にした小笠原だからこその言葉には、重みが詰まっている。(文中敬称略)

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