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JFA100周年カウントダウンコラム第1回~草創期~

2021年09月06日

JFA100周年カウントダウンコラム第1回~草創期~

日本サッカー協会(JFA)は9月10日(金)に創設100周年を迎えます。100周年を記念し、1921年の創設から現在までを振り返るカウントダウンコラムを掲載します。第1回目はサッカーの伝来から1955年頃までの日本サッカー草創期について、サッカージャーナリストの後藤健生さんにご執筆いただきました。

大日本蹴球協会が発足

明治維新の後「文明開化」の名の下に日本は政治、経済、軍事、法律、芸術などあらゆる分野で急ピッチに近代化(西欧化)を進めた。そして、教育の近代化の一環として体育教育も取り入れられ、近代スポーツが普及していく。サッカーも各地の旧制中学校(現在の高校に当たる)などでプレーされるようになったが、初めて本格的にサッカーの強化に取り組んだのは中村覚之助など東京高等師範学校(筑波大学の前身)フートボール部の学生たちだった。1903年頃のことである。お手本は横浜などの外国人チームだった。

1910年代後半になると旧制中学を中心にサッカー強化に取り組む学校も増え、各地で大会が開催されるようになる。そして、1919年にはイングランドサッカー協会(FA)から「全国選手権優勝チームに授与するように」として銀のカップが贈られてきた。日本のサッカー人とも交流があったウィリアム・ヘーグ書記官補の発案で在日英国大使館が本国の外務省を通じてFAに依頼したものだった。

これをきっかけに1921年9月には大日本蹴球協会が発足。同年11月には東京の日比谷公園内にあった芝生のグラウンドで「ア式蹴球全国優勝競技会」が開催され、東京高師などのOBによる「東京蹴球団」が初代王者となった。これが、全日本選手権大会の始まりで、戦後の1951年からは優勝チームに天皇杯が授与されることになり、2021年度の天皇杯JFA全日本選手権大会は101回目の大会となる。

日本サッカーが国際舞台へ

協会発足前の1917年にはすでに国際試合も行われていた。東京で開催された第3回極東選手権大会でのことだった。この大会は日本、中国、フィリピンが参加して、陸上、水泳、野球、テニスなど各種競技が行われる総合競技大会で「アジア大会の前身」とも言われている。

当時はまだ全日本選抜チームを結成するのが難しかったので、東京高師が日本代表として戦ったが、中国(香港の南華体育会)には0対5、フィリピンには2対15とともに大敗を喫した。英国植民地だった香港や米国領だったフィリピンではスポーツが盛んだったのだ。しかも、フィリピン代表には、フィリピン系スペイン人でFCバルセロナのエースだったパウリーノ・アルカンタラが参加していた。

その後、1920年代を通じて日本サッカー界の目標は中国やフィリピンだった。

1920年代後半になると師範学校や旧制中学よりも年齢層の高い大学チームが日本のサッカーをリードするようになり、関東、関西の学生リーグが日本のトップリーグとなった。そして、1927年に中国の上海で開かれた第8回極東選手権では、日本代表として参加した早稲田大学WMWがフィリピンを破って国際試合での初勝利を記録。さらに1930年に東京で開かれた第9回大会には、関東大学リーグで無敵だった東京帝大(現・東京大学)主体に初めて全日本選抜チームが結成されて日本代表として参加した。日本はフィリピンに勝って中国とも3対3で引き分けて、日中両国が同時優勝。日本サッカーにとって初の国際大会優勝だった。

極東選手権大会は日中両国の政治的対立のため、1934年の大会を最後に消滅してしまう。日本サッカー界にとって、次の目標はオリンピックだった。

当時のオリンピックはアマチュアだけの大会だったが、第二次世界大戦前は英国勢など一部を除いて欧州各国でもまだ正式にプロ化が進んでいなかったので、オリンピックのサッカーには各国のアマチュア選手だけではなく事実上のプロ選手も代表として参加していた。

オリンピックで残した爪痕

日本が初参加したのは1936年のベルリン・オリンピック。関東大学リーグを連覇していた早稲田大学主体の全日本選抜が参加。ノックアウト式トーナメントで行われた大会の1回戦で日本は2年後の第3回ワールドカップで4位に入る強豪国スウェーデンと対戦。前半は下馬評通りスウェーデンが2対0とリードして折り返したが、後半に入ると日本が走力を生かして反撃を開始。川本泰三、右近徳太郎の得点で追いつくと、終了間際の85分に松永行が3点目を決めて逆転勝利した。日本は2回戦ではイタリアと対戦した。名将ヴィットリオ・ポッツォ監督率いるイタリアは1934年と38年のワールドカップで優勝し、若手主体で参加したベルリンオリンピックでも金メダルを獲得した世界最強チーム。日本は後半30分まで3失点と粘ったが、最後はスウェーデンの疲れもあって0対8と大敗を喫した。

1940年のオリンピックは東京での開催が決まっていた。ベルリンで世界を相手に善戦した日本代表は1938年のワールドカップにも初めてエントリーしており、東京大会に向けて強化を続けられれば日本のサッカーは大きく成長できたはずだ。だが、1937年に始まった日中戦争が激化したことでワールドカップ予選は棄権せざるをえず、東京オリンピックも返上することとなった。

その後、戦争はさらに拡大。1941年には太平洋戦争も勃発する。サッカーの強化は滞り、スウェーデン戦でゴールを決めた右近や松永など多くの名選手も戦争の犠牲者となった。
1945年に第二次世界大戦が終わると翌1946年には全日本選手権も再開され、また1951年にはインドで開かれた第1回アジア大会にも日本代表が出場して銅メダルを獲得している。そして、1954年には韓国との間でスイス・ワールドカップ予選が行われた。初めての日韓戦だった。日本代表選手の多くは戦前から活躍していた選手だったが、1対5で敗れた第1戦で先制ゴールを決めたのは、後に日本サッカーのリーダーとして長く活躍することになる当時23歳の長沼健だった。日本サッカーは新しい時代を迎えようとしていた。

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