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ベルリンオリンピックと青のユニフォーム(前編)

2021年06月08日

ベルリンオリンピックと青のユニフォーム(前編)

2021年9月に創設100周年を迎える日本サッカー協会(JFA)は「サッカー日本代表100周年アニバーサリーユニフォーム」を制作しました。ここでは日本代表のユニフォームが青になり、世界の舞台で初めて輝きを放ったベルリンオリンピックを振り返っていきます。日本サッカーの歴史に造詣が深いサッカージャーナリストの国吉好弘さんにご寄稿いただきました。

コロナ禍の状況下、さまざまな混乱や多くの批判も浴びながら開催へ進む東京オリンピック。やるからには日本だからこそ実現できたと誇れるものにしなければならない。サッカーにおいては男女ともにメダルが期待される。
日本の男子サッカーがオリンピックに臨むのは今回が11回目。1992年バルセロナ大会から23歳以下の代表チームの争いになったが、それまで日本はフル代表が参加していた。と言っても本大会に参加したのは1936年ベルリン、1956年メルボルン、1964年東京、1968年メキシコシティの4大会だけで、それ以外は出場できなかった。
出場した中でも64年東京は開催国として予選はなく、初出場した36年ベルリンは大会へのエントリーが16カ国で、そのまま全チームが参加した。日本代表は1930年代まで主に東アジア地域の総合スポーツ大会として開催されていた極東選手権大会に出場するために編成されていた。しかし、1930年の大会で中華民国と同位ながら優勝を果たしたことでさらなる高みを目指すため、また諸般の事情(日本軍の国外進出)で極東大会の開催が難しくなってきたこともあり、次の目標はオリンピックに定められた。
しかし、1932年ロサンゼルス大会は、FAがホリディペイメントについて異議を唱え出場を辞退したことや、アメリカでの人気がなかったことなどからサッカーに代わりアメリカンフットボールが大会の競技種目とされた。1936年ベルリン大会はヨーロッパのドイツでの開催で、当然実施競技種目に復活する。日本サッカー界は満を持してこれに挑む態勢を整えた。大会前の協会の機関誌・蹴球の表紙にも「ベルリンへ、ベルリンへ、ベルリンへ」の文字が大きく躍り(1936年第4巻第2号)、大会へ臨む強い意欲を示している。
メンバーは選考委員会が設けられて議論の末に当時関東大学リーグ、東西学生対抗戦を3連覇していた早稲田大学からOBを含めて10人が選ばれて中心となり、他大学からも東京帝大から3人、文理大、慶應大から一人ずつ、朝鮮地域からも金容植(キム・ヨンシク=京城普成)が入った。監督は鈴木重義、コーチに工藤孝一の早稲田コンビ、帝大OBの竹腰重丸もコーチに就いた。竹腰は1930年極東選手権の中心選手で、34年の同大会では監督も務め、選考委員会でも中心となった日本サッカーの重鎮だった。

チームは4月から5月にかけて1次合宿を行い、さらに2度の強化合宿などを経て6月20日に東京を出発した。列車で下関まで行き、そこから船で釜山へ渡り、朝鮮半島、当時の満州を経てシベリア鉄道にてモスクワを経由してベルリンに到着したのは7月3日だった。日本サッカーにとって初めてのヨーロッパ遠征は、2週間を費やす長旅だった。
日本の初戦は8月4日のスウェーデン戦で、ほぼ1カ月の調整期間があったため、この間、日本は現地のチームと練習試合を行い、ここでチーム力を大きく進歩させることになる。対戦したのはいずれもベルリンのクラブで、ワッカーに1-3、ミネルバに3-4と連敗したが、ここで相手が、日本がこれまでプレーしていた2-3-5システムではなく、3バックの3-2-5、いわゆる「WM」と呼ばれるシステムを執っていたのを実戦で体験、ミネルバ戦では日本もこれを採り入れて内容は大きく改善された。さらにもう1試合を組み込んで、前の2戦よりも格上のブラウヴァイスと対戦した。これも結果は2-3で敗れたが、プレーぶりは新しいシステムでのプレーに成長の跡を示し、本番に向け大いに士気は高まった。
2-3-5は、そもそもオフサイドの規定がボールより前に相手選手が3人という時代のやり方で、これが1925年に前に2人いればオフサイドにならないというルールになってからは、2人のFBでは対応できずHBのセンターが下がって3バックで守るやり方がヨーロッパでは主流になっていた。日本でもいち早くそういったシステムを執り始める動きもあったが、日本代表はまだ以前のままだった。しかし、実際にヨーロッパのチームと対戦して3バックが有効であることに気づき、すぐに対応したのは首脳陣の好判断だった。

ベルリンオリンピックは8月1日に開会式を行って開幕、サッカーは3日から始まり、日本は4日、ヘルタプラッツ競技場でスウェーデンと対戦した。スウェーデンは優勝候補にも挙がる強豪で、キックオフと同時に試合を支配する。日本は3バックで対抗するが、なかなかハーフウェーラインを越えることもできない。それでも次第に落ち着き、右近徳太郎が中盤で奮闘し、押されながらも時おり反撃に出る。しかし24分、最も技術の高いエリク・ペルソンにボールを奪われ、ペナルティーエリア付近からのシュートで先制点を許した。37分にも再びペルソンのミドルシュートが決まり、ほぼ絶望とも思える2点差で前半を終えた。

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