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祝!Jリーグ30周年 ~技術委員長 反町康治「サッカーを語ろう」第29回~

2023年05月15日

祝!Jリーグ30周年 ~技術委員長 反町康治「サッカーを語ろう」第29回~

5月15日といえば、昭和の歴史に詳しい人なら「五・一五事件」を連想するのかもしれない。私にとって、この日付は、30年前にプロサッカーのJリーグが記念すべき第一歩を踏み出した日として今も脳裏に刻まれている。舞台は超満員の東京・国立競技場、カードはヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)対横浜マリノス(現横浜F・マリノス)。アマチュアの日本サッカーリーグ(JSL)をプロリーグへと改革する動きは1980年代後半から加速し、初代Jリーグチェアマンの川淵三郎さんら関係者の尽力によって、ついに1993年5月15日に船出の日を迎えた。その歴史的一戦を私は新横浜プリンスホテルの一室で見ていた。翌日に私が当時所属していた横浜フリューゲルスも清水エスパルス相手に三ツ沢球技場で開幕戦を行うことになっていて、試合に備えて前泊していたのである。1992年秋に一足早くヤマザキナビスコカップがスタートし、プロサッカーのお披露目は済んでいたが、リーグの始まりとなるとやはり世間の注目度は違った。テレビに映る開会セレモニーはJSL時代とは別世界のように華やかであり、当時の横綱格だったヴェルディとマリノスによる試合の中身も船出にふさわしい熱戦だった。あまりのきらびやかさに私は身震いが止まらなくなり、同じプロの舞台に自分も明日立つのだと思うと、緊張と興奮で一睡もできなくなってしまった。小学生からサッカーを始めて、そんな眠れぬ夜を過ごしたのは初めてのことだった。

翌16日午後1時5分のキックオフに合わせ、三ツ沢に乗り込んだらスタジアムに入るところからすごい歓声を浴びた。学生時代を含め、それまで三ツ沢で何十回と試合をしたけれど、いつも駐車場はガラガラで簡単にUターンできた。その日は選手を乗せたバスの身動きが取れないほど、ぎゅうぎゅう詰め。カメラのシャッターがバチバチ切られ、冗談抜きで芸能人になったような気分。当時のフリューゲルスはブラジル人のエドゥー、アルゼンチン人のモネールという外国人選手がいて、彼らにすれば大勢のお客さんの前でプレーするのは日常だっただろう。しかし、われわれはスタンドからあふれそうなくらいに膨れ上がったお客さんの前で試合をするのは初体験に等しかった。そんな記念すべき試合に私はGK森敦彦、DF渡辺一平、岩井厚裕、薩川了洋、高田昌明、MF山口素弘、FW前田治らとともに先発し、56分までプレーした。試合中は今のようなチャントより、チアホーンがずっと鳴り響いて、お祭りみたいな雰囲気だったけれど、スタンドに「サポーター」という新種の熱狂的なファンが現れたことだけでも十分に衝撃的だった。

30年前のJリーグ元年を思い出す度に、人生の航路とはこうも変わるものかと不思議な感慨にとらわれる。あの5月15日を境に私の人生は大きく変わったと言っても過言ではない。同時に川淵さんら日本サッカーのプロ化に奔走された大先輩たちへの感謝の念も自然に湧いてくるのである。私がフリューゲルスの前身である全日空に入社したのは1987年のことである。当時の全日空は雑誌の「大学生就職人気ランキング」で1位になることもある花形企業。ワールドワイドな仕事をすることを夢見て就活し、航空業界の先行きに明るい未来を感じて全日空を選んだ。総合職で入った私の同期は30人という狭き門だった。入社すると午前中は羽田空港に通い、スケジューラーといってパイロットの運行管理にいそしんだ。午後は退社してサッカー部員として活動、週末はJSLでプレーするのが日常になった。その頃から既にJSL 1部の読売クラブ(現東京V)や日産自動車(現横浜FM)は実態的にはプロと呼べる選手を抱えてプロ化に向けて走り出していたが、全日空はまだ2部で社員と選手生活を両立させることは十分可能だった。私のその頃の目標はあくまでも全日空の社員として身を立てていくことにあった。社員と選手の〝二刀流〟の生活はそれなりに充実していて特に不満を感じることはなかった。

風向きが変わったのは1988年に全日空が2部から1部に昇格したあたりからだった。勢いづいたチームは大学の有望選手を次々に獲得、昇格1年目の1988-1989年にいきなり2位に躍進、1989-1990年も3位と優勝争いに絡む強豪に変貌を遂げた。このあたりから全日空もプロ化に前のめりになり、1991年には日産自動車を強豪に育て上げた加茂周さんを監督に迎えた。そういうプロ化の大きなうねりを感じながら、私の立ち位置はずっと微妙なままだった。1991年2月に正式にJリーグに参加する10クラブが発表され、その中に全日空も含まれたが、Jリーグがスタートする1993年というと私はもう29歳になっている。「プロ選手になるにはトウが立ちすぎている」という思いがどうしても頭をよぎるのだった。JSL時代は多くて3千人くらいの観客の前でプレーしていた。まばらな客席を見ると友達や身内がどこにいるかすぐに分かるくらい。日本のサッカーで国立競技場が満員になるのは高校サッカーの決勝とか天皇杯の決勝とか数えるほどで、ブラジルの王様ペレや西ドイツ(当時)の皇帝フランツ・ベッケンバウアーを招いたアメリカのプロリーグ(MLS)も最初は好況に湧いたが、やがて尻すぼみになって消滅した。そんな先行事例も頭に浮かび、どうしてもプロ選手になるふんぎりはつかなかった。周りも「世の中そんなに甘くない」「日本でサッカーでメシを食っていけるわけがない」とやかましかった。

ありがたいことに、全日空はフリューゲルスというプロチームに衣替えしても、社員選手としてプレーを継続できる道を私につくってくれた。フリューゲルスを運営する全日空スポーツという関連会社に出向し、現役の間はサッカー一本に絞って活動し、引退後、社業に戻ればいいという配慮だった。同じような社員選手は松下電器(現ガンバ大阪)やマツダ(現サンフレッチェ広島)にもいると聞いた。アマからプロへの移行期だったから、そういう道が用意されたのだと思う。ちなみに1987年に全日空に入社した同期のサッカー部員は2人いて、石末龍治はその後、プロの道を選び、今はアルビレックス新潟でGKコーチをしている。堀直人は引退すると社業に戻り、今も空港でばりばり働いている。私もこの頃はまだ霞が関の本社で働くという目標を変えていなかったのだが……。

Jリーグが始まると爆発的な人気を呼び、JSL時代は見向きもされなかったチケットの争奪戦が起きた。私のところにも、いろいろな人から「Jリーグのチケットはないか?」という問い合わせの電話が殺到した。マスメディアにサッカーが取り上げられる機会も急増。プロの時代が来たのに、あえてアマチュアで通す元日本代表というユニークな立場が関心を引いたのか、私もいろいろな媒体で取り上げられた。プロになって脚光を浴び、外車を乗り回すようになったJリーガーと、6畳1間の部屋に置き場所がなくてベランダに冷蔵庫を置く私とのコントラストにマスメディアの食指が動いたのだと思う。

プロになって周りの選手の意識が変わったのは確かだった。JSL時代は自己管理がてんでなっていなかった選手がトレーニングと節制に明け暮れるようになった。「激変」と言っていいくらいだった。アマ時代は日曜日に試合をすると休日手当、遠征に行くと出張手当が出たりしたが、勝とうが負けようが基本給に違いはなかった。プロになると年俸にプラスして勝利給や出場給が出て、金額も桁違いになった。インセンティブに火がついて当然だった。選手は死に物狂いでボールを追い、球際のバトルも激しくなった。国立競技場でヴェルディと対戦したとき、周りの熱気にあおられて私もボールを追いかけてCBのペレイラとぶつかってはじき飛ばされ、ピッチ脇の広告看板に頭を打ちつけ流血したりした。「あいつはアマだから」と陰口をたたかれないようにするには、それくらい激しくやらないと示しがつかない――。そんな気負いもあった気がする。

立場上はアマとはいえ、職場を離れてサッカー一本の生活を送ると、それはそれで不安になった。社業にブランクをつくると、同期の同僚と仕事の処理能力の差がどんどんついてしまう気がした。一方、サッカーの現場では周りはプロで勝負しているにもかかわらず、自分には戻る職場があることに後ろめたさをどうしても感じた。全日空に社員で入るつもりだったのに「もう社員採用はしない」と断られ、学校を出るとそのままプロになった者もいる。そんなこんなで居心地の悪さを感じ、いっそプロになろうかと思うのだが、その一歩がなかなか踏み出せない。背景として世はまだ終身雇用全盛の時代で、銀行とか商社とかメーカーとか大きな会社に入れば定年までそこで働くのは当たり前だったこともある。転職すると「何か会社で悪いことでもしたのか?」という雰囲気がまだあり、私もそういう労働観を簡単には捨てきれないでいた。

そんな私に変化を促したのはJリーグの空前の盛り上がりだった。にわかのファンも含めてスタジアムに人が押し寄せ、活況は永久に続きそうだった。何より、プレーヤーとしてやれるところまでやりたい気持ちが大きく膨らんだ。そういう点で新旧交代を着々と進めるフリューゲルスに自分の居場所は確実に小さくなっていた。そこに誘いをかけてくれたのがJリーグ入会を認められ、1994年にJFL(ジャパンフットボールリーグ)からJリーグに戦いの舞台を移すベルマーレ平塚(現湘南ベルマーレ)だった。ベルマーレの立ち上げに深く関わり、後に社長になる重松良典さんに「うちのような若いチームには君の経験が必要なんだ」と熱心に口説かれた。GKに小島伸幸がいて、フィールドには岩本輝雄とか名良橋晃、田坂和昭、名塚善寛とかイキのいい若手が何人もいた。慶応の大先輩でもある重松さんの言葉に動かされ、全日空を退社しプロの世界に飛び込む腹をくくったのだった。全日空での最後の試合は1994年元日の第73回天皇杯決勝になった。途中出場し、119分に鹿島にとどめを刺すゴールを置き土産にできた。会社は30歳手前でのプロ転向に「やめた方がいいんじゃないか」と慰留してくれたが、退社と同時にベルマーレに移籍した。契約金はなく、年俸は一気に4倍になったが、契約期間は単年。それから1年ずつ更新しながら1997年まで4シーズン、プロとして競技人生を送れた。プロ転向後、引退後のことも考えて「練習のない時間は自分に投資しよう」と思い立ち、英語の勉強を始めて英検2級を取り、パソコンの時代が来るとにらんで教室に通ったりもした。

1993年は10クラブしかなかったのに、今は60クラブもある。47都道府県でJクラブがないところの方が少ないくらいだから、隔世の感とはこのことだろう。そうやってJクラブは全国津々浦々に広がっていくのは喜びである一方、私の古巣のフリューゲルスのように吸収合併という形でなくなってしまったところもある。感覚的には故郷を喪失したようであり、寂しいことこの上ない。そういう思いをファンやサポーター、選手、チームに関わるすべての人にさせてはいけないと、つくづく思う。

Jリーグは野々村芳和チェアマンになって、よりサッカーの側面に光を当ててくれるようになったのを個人的にはうれしく思っている。JFAとJリーグは日本サッカーの発展のためにあり、目的を同じにする同志だと思っている。昨冬のカタールのFIFAワールドカップでSAMURAI BLUEがドイツに勝ったときは野々村チェアマンと目頭を熱くし抱き合って喜んだものだ。Jリーグとは今後も引き続き、緊密な関係を築いていきたいし、意見を積極的に交換したいと思っている。Jクラブの監督といろんなことをざっくばらんに議論したいと思っている。昔はJリーグ開幕前に監督会議があって、その場でジェフ千葉のイビチャ・オシム監督が「Jリーグではカウンターのチャンスをレフェリーが笛を吹いて阻むことがある。痛がる選手は放っておいてプレーを続けさせるようにしてくれ」と提言し、実際に反映されたりした。私も松本山雅の監督時代に「ハーフタイムの時間をきちっと確保してほしい」と提案した。前半にアディショナルタイムを取り、取った分だけハーフタイムの休憩時間を削られると、選手がエナジーアップできないからだった。その意見も採り入れられた。コロナ禍ではそういうリアルな意見交換の場を設けにくかったけれど、新型コロナウイルスの分類が変わったこれからは様子を見ながら〝解禁〟していけるだろう。Jリーグには面白い考えやアイデアを持った指導者は国籍を問わずいる。それを活用しない手はない。

自分の人生を振り返ると、節目、節目でいろんな転機があった。最初の転機は小学生のとき、静岡に引っ越してサッカーに出会ったこと。その次にプロリーグのJリーグが出来たことである。もし、日本にプロサッカーが出来ていなければ、そのまま会社員を続け、最後までサラリーマン人生を送っていたのだろう。それがJの大きな波にさらわれてサッカー中心の生活を送ることになり、今日に至るわけである。いろんな道を歩いて、ときに回り道をしたこともあったのかもしれないが、これだけは変わらないと思うのは、決断のベースに常に「サッカーが好きだ」という思いがあったこと(指導者を志した理由も同じ。それはまた別の機会に詳述したい)。Jリーグが出来てからの30年で日本サッカーはアジアで一番の発展を遂げた。それは諸先輩たちがプロリーグのモデルをしっかり構築してくれたおかげではあるが、常に上を目指す日本人の向学心や向上心、サッカーを愛する心が土台にあっての成功でもあるだろう。これからも世界基準の視点を常に持ちつつ、サッカーに懸ける情熱を核にしながら、Jリーグとともに日本サッカーの競争力を伸ばしていきたいと思う。

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