JFA.jp

JFA.jp

EN
ホーム > JFA > 「サッカーを語ろう」技術委員長 反町康治 > 最新ニュース一覧 > 夢先案内人 ~技術委員長 反町康治「サッカーを語ろう」第13回~

ニュース

夢先案内人 ~技術委員長 反町康治「サッカーを語ろう」第13回~

2021年09月30日

夢先案内人 ~技術委員長 反町康治「サッカーを語ろう」第13回~

2021年9月10日に日本サッカー協会(JFA)は創立100周年を迎えた。JFAが「大日本蹴球協会」として産声をあげたのは元号でいうと大正10年になる。それから昭和、平成と歴史を重ねながら、その時代ごとにサッカー人のさまざまな「夢」があり、自分たちの時代には無理でも次の世代に「夢」の実現を託して、令和の今につないできた多くの〝パス〟がある。そのピュアな気持ちこそ、この百年の間に脈々と受け継がれてきた中で、一番大事なものだろう。千葉県浦安市の舞浜アンフィシアターで行われた100周年を祝う記念式典はコンセプトに掲げた「過去への感謝、未来への決意」という気持ちのこもった、非常に良いセレブレーションだったと聞いている。「聞いている」という伝聞の形になったのは、残念ながら私は式典に出席できなかったからだ。式典の3日前の9月7日、カタールのドーハで中国とFIFAワールドカップアジア最終予選を戦った。チームに団長として随行した私は帰国後2週間の自主待機に入り、式典は欠席となったわけである。

20世紀を「サッカーの世紀」と呼ぶ人がいるけれど、確かにこの100年くらいの間にサッカーは「真のワールドスポーツ」といえるくらい盛んになった。その間、いろいろな変化があった。オフサイドのルールは細かく変わり、それに合わせていろいろなシステムが生まれ、要求される戦術、技術、フィジカルも格段にハイレベルになった。その様変わりを思うと、これからの100年でサッカーはどんなふうになっていくだろうかと想像してしまう。ピッチ内では、どこかの段階で11人対11人の戦いではなくなっているかもしれない。ゴールも大型化するGKのサイズに合わせて大きくなっているかもしれない。判定はすべてAI(人工知能)が下していることも十分ありえる。100年前の人たちにビデオ・アシスタント・レフェリー(VAR)なんてものがまったく想像できなかったように、今の私たちには思いもつかないことが、100年後のピッチでは繰り広げられている。サッカーの歴史を振り返ると、そう考える方が自然に思えるのだ。

JFAは百歳の誕生日を迎えたけれど、今、57歳の私も50年近くサッカーに関わってきた勘定になる。サッカーを始めたのは静岡・清水市立有度第二小学校の3年から。それからは、ボールを蹴らなかった期間は清水東高校を出て慶応大学に入るまでの浪人の1年間くらいだった。サッカーを始めたきっかけは、父親の転勤に伴って、埼玉の浦和から清水に引っ越したことだった。当時の清水は既に「サッカー一色の町」という感じで、清水のサッカー情報を網羅した『静岡ユースサッカー』という情報紙まで発行されていた。小学校のクラスでいうと、男子の半分はサッカーをやるような土壌。そこで僕は小島鋼雄先生という素晴らしい方にめぐり合い、サッカーをする喜びと楽しさを植えつけてもらった。清水にはまた堀田哲爾先生という、サッカーに人生を捧げた名物教師がいた。清水の小学校を組織化し、その選抜チームである「清水FC」を立ち上げ、全国にその名をとどろかせたサッカー人である。堀田先生のすごさは子どもたちに国際経験を積極的に積ませたこと。私も清水FCの一員として小学6年生でドイツ、中学3年生でブラジル遠征を経験した。当時の日本でそんなことをしていたのは清水くらいだったろう。

清水FCで育った選手はやがて中学、高校へと進学していく。そうすると今度はトレセン方式を採用し、毎週金曜日になると清水市内の高校生が学校の垣根を越えて集まって練習するようになった。清水東の私が、ライバルの清水商業や市外の静岡学園の三浦泰年らとボールを蹴る。その場には清水の小学校の子どもたちもいた。ある意味でクラブシステムのようなもので、当時としては非常に優れた育成環境だったと思う。私が子どもの頃、サッカーの試合をテレビで頭から最後まで確実にフルで見られるのは天皇杯全日本選手権くらいだった。おかげで子どものころの夢は天皇杯決勝で活躍し優勝することだった。あるとき、元日の天皇杯に優勝した直後のフジタ工業が1月15日の成人の日に清水にやって来て静岡選抜と試合をしたことがあった。同時に市内の学校を回ってサッカー教室も開いたのだが、その当時私はフジタの選手だった植木繁晴さんにサッカーを教わり、一緒に図書室で弁当も食べた。まさか、その20数年後にベルマーレ平塚(現湘南ベルマーレ)で植木監督の下でプレーすることになるとは夢にも思わず……。そうやって天皇杯優勝チームを清水に呼んでしまう堀田先生の発想力というか、実行力は本当に恐るべきものだった。

堀田先生は1978年6月の『静岡ユースサッカー』に「少年サッカー指導教程」と題し、コーチの仕事を以下のように記している。「1人1人をよく知ること」「技術の必要性を知らせること」「他の仕事(注:サッカー以外の学校での授業態度や生活態度のこと)での選手を知っておくこと」「サッカーのルールを教えること」「健康状態を常に知っておくこと」「練習方針がはっきりしていること」「コンディション作り」「選手とよく話し合うこと」。当たり前だよ、そんなこと、と思われるかもしれない。でも、その当たり前のことがなかなかできていないのが実情ではないだろうか。我が身を省みても、そう思うのだ。清水東高時代は勝沢要監督からサッカーの厳しさをたっぷりと仕込まれた。「サッカーは格闘技だ」とおっしゃって、今で言うならデュエルの大切さを説かれていた。一方で臨時コーチにセルジオ越後さんやアデマール・マリーニョさんを招いたりして、スキルの重要性にも目配りされていた。そうやって小中高と指導者、育成環境に恵まれたことは私のサッカー人生に決定的に作用したと思っている。日本の育成環境では、選手が指導者を選ぶのはなかなか難しい。チームに入ってから「自分に合わない」と思っても、簡単に移籍できるわけでもない。だからこそ、当たり外れのない、質の高い指導者養成は大事なのである。JFAが始めた「ロールモデルコーチ」にしても、まだ現役感が漂う内田篤人や中村憲剛なら若い選手に見本を示せるし、直接触れ合うことで双方にプラスがあると考えてのことだ。

「不易流行」という言葉があるように、サッカーの世界も、どんな時代になっても変わらぬ普遍的な部分と、常に更新を怠ってはならない部分の両方が存在する。「流行」には戦術のアップデートがある。1970年代にオランダ代表やアヤックスを率いたリヌス・ミケルス監督はサッカーに革命をもたらしたとされる。1974年のFIFAワールドカップで準優勝した時の監督で、ヨハン・クライフというスーパースターを擁し、プレッシングによるボール狩りとハイライン、オフサイドトラップを組み合わせて「トータルフットボール「未来のサッカー」と絶賛された。それを受け継いだのが1990年代に一時代を築いたACミランのアリゴ・サッキ監督だった。そういうドラスチックな変化はないものの、戦術のイノベーションは今も確実に進んでいる。サイドバックは、かつて右が上がれば、左は控えるという「つるべの動き」が基本とされた。今はサイドバックがインサイドに入って、5レーンを意識してプレーするのは当たり前。システムや戦術は「あらかた出尽くした」と言われながら、何かしら新しいものが生まれてくる。そういう意味でもすごいと思うのは現在マンチェスター・シティーを率いるジョゼップ・グアルディオラ監督だろう。どこに行っても必ず覇権を握る名将だが、スペインのFCバルセロナとドイツのFCバイエルンを率いたときでは違うサッカーをしてきた。バルセロナのスタイルをそっくりそのまま再現するのではなく、バイエルンに行けば、アリエン・ロッベンやフランク・リベリという素晴らしいウイングがいることからヒントをもらい、多くのパスコースをつくるためにサイドバックのフィリップ・ラームをインサイドに入れることを考えた。あくまでも選手ありき。

「不易」の部分でいうと、スペインの選手たちが頭に浮かぶ。決して没個性という意味ではなく、次から次に出てくる選手のボールを「止めて」「蹴る」の水準の高さがまるで「金太郎飴」のようなのだ。代表選手の過去を遡っていくと、アンダーエージの時に静岡で開催しているSBSカップに来ている選手が結構いたりする。あれほどのサッカー大国で技術水準の高いプロ選手は大勢いるのに、代表レベルにとなると、アンダーエージの代表がそのままフル代表になるケースが多い。コーチングスタッフの選び方も継続性を重視している。だからこそ、チームとしての戦略・戦術が体に染みついているというか、即席でチーム編成しても強みを発揮できる。トライアングルの作り方やビルドアップの仕方、CBのボールの持ち運びを誰が出てもやれてしまう。そんなスペインを見ていると、つい外形だけ真似て「日本も今後は4-3-3のシステムで戦う」と決めてしまいたい誘惑に駆られる。中盤の3人は逆三角形にも正三角形にもなるが、とにかくトライアングルで。しかし、JFAがそうやって決めてしまうことは、クラブから見れば「介入」に映るだろう。私自身もそうすることには抵抗がある。FCバルセロナとスペイン代表の強さが全盛だったころ、世界各地の指導者が「ティキタカ」と呼ばれる彼らのスタイルに憧れ、模倣に努めた。しかし、リオネル・メッシもシャビもアンドレス・イニエスタもいないチームが、それをやろうとしてもおのずと限界があった。そういう形の話よりも、「全員で攻めて全員で守る、攻守の切り替えの速さ」「1タッチを使ったテンポのいい攻撃」「ボールホルダーを超えていく力」という今でも明らかに出せている日本の良さを絶対に捨ててはいけないと思うのである。

JFAの技術委員長としての仕事は「代表強化」「選手育成」「指導者養成」「普及」という四つの柱がある。指導者養成、選手育成 普及の各部門にはダイレクターがそれぞれいて意思決定をしている。それで端から見ると、技術委員長の仕事は95%が代表強化だと思われるのだが、私自身は四つの柱が25%ずつだと思っている。普及に力を入れているし、指導者養成でも、いずれFCバイエルンを日本人監督が率いる時代が来るようにしたいと思っている。技術委員会の仕事は過去に敬意の念を持ちながら、未来に向けてもアンテナをしっかり張って、一つ一つ精査しながら次の百年の大計を考えるのが仕事だと思っている。今のところマイナーチェンジが多いけれど、未来に向けてタブーを設けず、本腰を入れて様々な議論を重ねることが大事だと。山口百恵さんの歌のタイトルじゃないけれど、自分たちの仕事は「夢先案内人」だと思っている。先人たちが残したレガシーをしっかり受け継いで、時代の最先端のトレンドもキャッチしながら、いろんな人の夢を紡いで形にしていくのが仕事だと。かじ取りを間違え、誤った航路に導いたら大変なことになる。すぐには形にならなくても、取り組みの一つ一つが、大地の下で根が広く深く張っていくようなことになっていけばいいと思っている。

アーカイブ
JFAの理念

サッカーを通じて豊かなスポーツ文化を創造し、
人々の心身の健全な発達と社会の発展に貢献する。

JFAの理念・ビジョン・バリュー